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梅林寺よりお知らせ

阿部将翁の墓 史跡

阿部将翁の墓
阿部将翁の説明

阿部友之進照任は、江戸中期、徳川吉宗治世期に活躍した本草学者で、その墓は都の旧跡に指定されている(昭和3年指定)。
友之進、名を照任、また輝任、字を伯重、号を将翁(しょうおう)また将翁軒と言い、友之進は通称である。
奥州盛岡出身。東条琴台著『先哲叢談続編』第四巻によると慶応3年(1650)の生まれとされているが、没年の宝暦3年(1753)から逆算すると、104歳で没したことになり、生年に疑問が持たれている。
近年、照任の著になる『金の書』などにより、生年は寛文7年(1667)前後という見解も出された。
照任は、享保12年(1727)に奥州盛岡に、翌年甲斐(現、山梨県)に赴き採薬を果たしている。
同年神田紺屋町(現、千代田区)に薬草植場を貸与され、また同14年、奥羽、蝦夷へ採薬に出掛けたことは幕府の史料で判明しているが、未だ不明な点が多い。
照任の曾孫喜任は字を享、享父、通称・号を曾祖父と同じ友之進、将翁と名乗るが、櫟斎の号を使用することが多い。他に巴菽園、庵の号がある。
本草学を曽占春、岩崎灌園に学び、漢学を登場琴台に学んだ。
文久元年(1861)幕府が派遣した咸臨丸に乗船し小笠原の調査を行うなど実地調査の傍ら、曾祖父照任の事蹟を顕彰することに勤めた。
文化2年(1805)生、明治3年没。 
 

河東碧梧桐の墓 史跡

碧梧桐の墓

愛媛県温泉郡千船町(現・松山市千舟町)にて松山藩士で藩校・明教館の教授であった河東坤(号・静渓)の五男として生まれる。
1889年(明治22年)、同級生の高濱清(後の高浜虚子)を誘い子規より俳句を学ぶ。
1893年(明治26年)、京都の第三高等学校入学。第二高等学校(現在の東北大学)に編入の後、中退。
1902年(明治35年)に子規が没すると、新聞『日本』俳句欄の選者を子規より受け継ぐ。
1905年(明治38年)頃より従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句に走り、1906年(明治39年)より1911年(明治44年)にかけて新傾向俳句の宣伝のため二度の全国俳句行脚を行う。
1933年(昭和8年)3月25日、還暦祝賀会の席上で俳壇からの引退を表明した。
1937年(昭和12年)1月、腸チフスを患い、更に敗血症を併発し、2月1日に65歳にて永眠。

 

墓所は父母が眠る松山市の宝塔寺及び東京都台東区の梅林寺に分骨されていたが、現在梅林寺のお骨は枚方に引き取られここには無い。(墓に刻まれている「碧梧桐墓」の文字は碧梧桐自身の書)
碧梧桐と虚子は子規門下の双璧と謳われたが、守旧派として伝統的な五七五調を擁護する虚子と激しく対立していた。

新傾向俳句から更に進んだ定型や季題にとらわれず生活感情を自由に詠い込む自由律俳句誌『層雲』を主宰する荻原井泉水と行動を共にした。
1915年(大正4年)には井泉水とも意見を異にし層雲を去る。
碧梧桐はその年の3月、俳誌『海紅』を主宰。更にこれも中塚一碧楼に譲る。
昭和初期に風間直得が漢語にフリガナ(ルビ)を振るルビ俳句を試作、これに賛同した碧梧桐もこれを作るようになるが、これはあまり支持をえなかったようだ。
引退については俳句創作への情熱の衰えと、虚子への抗議の意味が込められていたようである。
子規は、碧梧桐と虚子について、「虚子は熱き事火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し」と評した。

綱敷天神【南総里見家由来】 史跡

綱敷天神祠
秘仏天神座像(布団代わりの帆綱を敷く)
怖いお顔のアップ

 

綱敷天神(つなしきてんじん)の由来

菅原道真公の師、比叡山法性坊尊意阿闍梨の作と伝えられ、代々下総國府台の城主、里見家(南総里見八犬伝で有名)の鎮守神としてその城中に祀ってありましたが、慶長十九年六月、里見家没落の際、その臣甲坂和泉長経という人、霊夢によって天神像に供奉し、下総平井村(江戸川区平井)に棲居して性を平井と改めました。
その子孫が石川家に仕える事になって、主君の病悩平癒、武運長久祈願の為に南千住小塚原の辺りに在った龍源寺と、下総平井村から移り小塚原近くの天神山に祀ってあった綱敷天神尊像を鎮守とし、合わせて華嶽山梅林寺と改め三ノ輪の地に一寺を創立したと伝えられています。
かつては江戸の25天神の一つに数えられ毎月25日には市も立っていましたが、戦後は訪れる人もなく昭和42年以降、本堂内に安置されていました。

平成19年客殿の改築に伴い、本堂前に祠を再建新築し天神像を安置しました。

写真公開した天神像は、お姿を直接見ると目がつぶれると言い伝えられていた座像です。

 

 

 

尊意阿闍梨(そんいあじゃり)貞観八年(866年)~天慶三年(940年

平安時代中期の天台宗の僧。京都の出身。
鴨川東の吉田寺で地獄絵を見て発心し、初め栂尾寺の賢一、ついで比叡山極楽寺の増全に師事して天台教学を学んだとされています。
また、玄昭から密教の法を受け、円珍から菩薩戒を受けました。924年(延長四年)には天台座主に任じられました。
仏頂尊勝法・不動法の修法を得意とする験者として知られ、平将門の乱(承平の乱)における調伏にも霊験があったと伝えられています。

晩年には大僧都に至り、没後、僧正法印位を追贈されました。

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