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東京 永代供養・水子供養・墓地の梅林寺|三ノ輪駅から徒歩1分

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文化財

2017.01.03

細木原青起先生作 干支

☆雪舟涙のネズミ : 幼くして寺に入った雪舟は、好きな絵ばかり描いていたので、腹を立てた住職は、少年を本堂の柱に縛りつけてしまうのですが、少し可哀想に思い、夕方、本堂を覗いてみると、少年の足もとで一匹の大きな鼠が動き回っている。少年が噛まれては大変と思い、住職はそれを追い払おうとしましたが、不思議なことに鼠はいっこうに動く気配がありません。その鼠は生きた鼠ではなく、少年がこぼした涙を足の親指につけ、床に描いたものだったのです。はじめ動いたようにみえたのは、鼠の姿がまるで本物のように生き生きとしていたからです。それ以後、住職は少年が絵を描くのをいましめることはけっしてありませんでした。

干支_戌(花咲か爺 ここ掘れワンワン)
干支_亥(巻狩)
干支_子(雪舟 涙のネズミ)

文化財

2017.01.01

明けましておめでとうございます

梅林寺の玄関には細木原青起先生画の十二支を展示してあります。これから十二支の絵を順次御紹介していきますが、今年の干支この絵は天照大神、天岩戸の神隠れの図、鶏が印象的です。

 【細木原青起先生略歴】

岡山県出身。旧姓は鳥越、本名は辰江。「京城日報」「東京日日新聞」「大阪朝日新聞」で漫画やユーモア小説の挿絵を担当。俳句は「海紅」の河東碧梧桐に師事、その関係で俳句に海紅の挿絵も数多く担当し、碧梧桐や中塚一碧楼などの俳人たちを描いている。梅林寺先々代の喜谷六花の描かれた作品もあります。『日本漫画史』で『鳥獣戯画』が日本漫画の始祖だそうです。

 


文化財

2016.12.02

喜谷六花

負う猿背につむりつけて暮れがた

 

喜谷六花(きたにりっか)略歴
明治十年七月十二日、東京浅草馬道に生まれる。本名良哉。
十六歳の折、曹洞宗の僧籍に入り、曹洞宗高等学林および哲学館(現東洋大学)に学ぶ。
明治三十年、梅林寺(台東区三輪町)の住職になる。
俳句は明治三十三年秋声会系の中村楽天主宰の二六吟社同人となり、三十四年には「ホトトギス」例会に出席、「日本俳句」にも投句。
三十四年以来、河東碧梧桐の門人となり、明治四十年以降、新傾向時代の東京俳句会の中堅作家として活躍。乙字、碧童とともに「碧門三羽カラス」と言われた。
また、梅林寺は碧派の俳三昧や東京俳句会などの会場としてよく使われた。
大正元年に第一句集「寒烟」出版。
大正四年、碧梧桐創刊の「海紅」同人となり、中心的役割を担った。大正十四年碧梧桐と共に風間直得の「三昧」に転じたが、碧梧桐の俳壇引退の後、昭和七年に風間直得のルビ俳句に同せず再び「海紅」に復帰。
昭和三年、第二句集「梅林句屑」出版。
戦時中は俳句活動は控えていたが、戦後「海紅」主幹であった中塚一碧楼が死去して後、「海紅」の選を担当した。
碧梧桐没後、昭和二十二年に「碧梧桐句集」を編み、二十九年にも瀧井孝作と共に「碧梧桐句集」を出版。師の功績を世に問うた。
昭和三十五年に第三句集「虚白」を出版
昭和四十三年十二月二十日遷化
曹洞宗大教師

 


文化財

2016.11.29

中村不折

梅林寺の山号:梅林寺は【華嶽山 梅林寺】と称します。中村不折氏が梅林寺で例会があった「海紅」などに参加していた頃、揮毫したものと思われます。

 

中村不折略歴

明治20年、22歳の時、絵を勉強するため上京し、高橋是清邸の空き部屋、三畳一間を借り自炊生活を始めました。
十一字会(のちの不同舎)で小山正太郎に師事し絵を学びました。
生涯の友、正岡子規の紹介で日本新聞社で挿絵を担当、36歳で渡仏します。
不同舎にいた荻原守衛(碌山)の縁で中村屋の創業者 相馬愛蔵・黒光夫妻とも知り合い、中村屋が使用しているロゴは不折の書です。
明治38年に帰国、その直後から太平洋画会に所属し、またこの年には親しくしていた夏目漱石の『吾輩は猫である』の挿絵を本人の依頼により引き受けています。
不折は書家としても有名で、たくさんの書を残しています。
帰国後その評価も高いものとなり、親しくしていた碌山、中村彝、森鴎外、伊藤左千夫らの墓誌も彼の手によるものです。
また不折は身なりなど全く構わないことでも有名で、質素な生活を続け稼いだお金を書道に関する資料収集に費やし、その後の書道博物館設立につながっていきます。