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東京 永代供養・水子供養・墓地の梅林寺|三ノ輪駅から徒歩1分

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史跡

2016.12.01

河東碧梧桐の墓

愛媛県温泉郡千船町(現・松山市千舟町)にて松山藩士で藩校・明教館の教授であった河東坤(号・静渓)の五男として生まれる。
1889年(明治22年)、同級生の高濱清(後の高浜虚子)を誘い子規より俳句を学ぶ。
1893年(明治26年)、京都の第三高等学校入学。第二高等学校(現在の東北大学)に編入の後、中退。
1902年(明治35年)に子規が没すると、新聞『日本』俳句欄の選者を子規より受け継ぐ。
1905年(明治38年)頃より従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句に走り、1906年(明治39年)より1911年(明治44年)にかけて新傾向俳句の宣伝のため二度の全国俳句行脚を行う。
1933年(昭和8年)3月25日、還暦祝賀会の席上で俳壇からの引退を表明した。
1937年(昭和12年)1月、腸チフスを患い、更に敗血症を併発し、2月1日に65歳にて永眠。

 

墓所は父母が眠る松山市の宝塔寺及び東京都台東区の梅林寺に分骨されていたが、現在梅林寺のお骨は枚方に引き取られここには無い。(墓に刻まれている「碧梧桐墓」の文字は碧梧桐自身の書)
碧梧桐と虚子は子規門下の双璧と謳われたが、守旧派として伝統的な五七五調を擁護する虚子と激しく対立していた。

新傾向俳句から更に進んだ定型や季題にとらわれず生活感情を自由に詠い込む自由律俳句誌『層雲』を主宰する荻原井泉水と行動を共にした。
1915年(大正4年)には井泉水とも意見を異にし層雲を去る。
碧梧桐はその年の3月、俳誌『海紅』を主宰。更にこれも中塚一碧楼に譲る。
昭和初期に風間直得が漢語にフリガナ(ルビ)を振るルビ俳句を試作、これに賛同した碧梧桐もこれを作るようになるが、これはあまり支持をえなかったようだ。
引退については俳句創作への情熱の衰えと、虚子への抗議の意味が込められていたようである。
子規は、碧梧桐と虚子について、「虚子は熱き事火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し」と評した。

碧梧桐の墓

文化財

2016.11.29

中村不折

梅林寺の山号:梅林寺は【華嶽山 梅林寺】と称します。中村不折氏が梅林寺で例会があった「海紅」などに参加していた頃、揮毫したものと思われます。

 

中村不折略歴

明治20年、22歳の時、絵を勉強するため上京し、高橋是清邸の空き部屋、三畳一間を借り自炊生活を始めました。
十一字会(のちの不同舎)で小山正太郎に師事し絵を学びました。
生涯の友、正岡子規の紹介で日本新聞社で挿絵を担当、36歳で渡仏します。
不同舎にいた荻原守衛(碌山)の縁で中村屋の創業者 相馬愛蔵・黒光夫妻とも知り合い、中村屋が使用しているロゴは不折の書です。
明治38年に帰国、その直後から太平洋画会に所属し、またこの年には親しくしていた夏目漱石の『吾輩は猫である』の挿絵を本人の依頼により引き受けています。
不折は書家としても有名で、たくさんの書を残しています。
帰国後その評価も高いものとなり、親しくしていた碌山、中村彝、森鴎外、伊藤左千夫らの墓誌も彼の手によるものです。
また不折は身なりなど全く構わないことでも有名で、質素な生活を続け稼いだお金を書道に関する資料収集に費やし、その後の書道博物館設立につながっていきます。


史跡

2016.11.24

綱敷天神【南総里見家由来】

 

綱敷天神(つなしきてんじん)の由来

菅原道真公の師、比叡山法性坊尊意阿闍梨の作と伝えられ、代々下総國府台の城主、里見家(南総里見八犬伝で有名)の鎮守神としてその城中に祀ってありましたが、慶長十九年六月、里見家没落の際、その臣甲坂和泉長経という人、霊夢によって天神像に供奉し、下総平井村(江戸川区平井)に棲居して性を平井と改めました。
その子孫が石川家に仕える事になって、主君の病悩平癒、武運長久祈願の為に南千住小塚原の辺りに在った龍源寺と、下総平井村から移り小塚原近くの天神山に祀ってあった綱敷天神尊像を鎮守とし、合わせて華嶽山梅林寺と改め三ノ輪の地に一寺を創立したと伝えられています。
かつては江戸の25天神の一つに数えられ毎月25日には市も立っていましたが、戦後は訪れる人もなく昭和42年以降、本堂内に安置されていました。

平成19年客殿の改築に伴い、本堂前に祠を再建新築し天神像を安置しました。

写真公開した天神像は、お姿を直接見ると目がつぶれると言い伝えられていた座像です。

 

 

 

尊意阿闍梨(そんいあじゃり)貞観八年(866年)~天慶三年(940年

平安時代中期の天台宗の僧。京都の出身。
鴨川東の吉田寺で地獄絵を見て発心し、初め栂尾寺の賢一、ついで比叡山極楽寺の増全に師事して天台教学を学んだとされています。
また、玄昭から密教の法を受け、円珍から菩薩戒を受けました。924年(延長四年)には天台座主に任じられました。
仏頂尊勝法・不動法の修法を得意とする験者として知られ、平将門の乱(承平の乱)における調伏にも霊験があったと伝えられています。

晩年には大僧都に至り、没後、僧正法印位を追贈されました。

綱敷天神祠
秘仏天神座像(布団代わりの帆綱を敷く)
怖いお顔のアップ

お知らせ

2016.11.08

ホームページ(PCサイト) リニューアルのお知らせ

この度、梅林寺のホームページ(PCサイト)をリニューアルいたしました。

今後もこちらから最新情報を発信していきます。

どうぞよろしくお願いいたします。