河東碧梧桐の墓 史跡

愛媛県温泉郡千船町(現・松山市千舟町)にて松山藩士で藩校・明教館の教授であった河東坤(号・静渓)の五男として生まれる。
1889年(明治22年)、同級生の高濱清(後の高浜虚子)を誘い子規より俳句を学ぶ。
1893年(明治26年)、京都の第三高等学校入学。第二高等学校(現在の東北大学)に編入の後、中退。
1902年(明治35年)に子規が没すると、新聞『日本』俳句欄の選者を子規より受け継ぐ。
1905年(明治38年)頃より従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句に走り、1906年(明治39年)より1911年(明治44年)にかけて新傾向俳句の宣伝のため二度の全国俳句行脚を行う。
1933年(昭和8年)3月25日、還暦祝賀会の席上で俳壇からの引退を表明した。
1937年(昭和12年)1月、腸チフスを患い、更に敗血症を併発し、2月1日に65歳にて永眠。
墓所は父母が眠る松山市の宝塔寺及び東京都台東区の梅林寺に分骨されていたが、現在梅林寺のお骨は枚方に引き取られここには無い。(墓に刻まれている「碧梧桐墓」の文字は碧梧桐自身の書)
碧梧桐と虚子は子規門下の双璧と謳われたが、守旧派として伝統的な五七五調を擁護する虚子と激しく対立していた。
新傾向俳句から更に進んだ定型や季題にとらわれず生活感情を自由に詠い込む自由律俳句誌『層雲』を主宰する荻原井泉水と行動を共にした。
1915年(大正4年)には井泉水とも意見を異にし層雲を去る。
碧梧桐はその年の3月、俳誌『海紅』を主宰。更にこれも中塚一碧楼に譲る。
昭和初期に風間直得が漢語にフリガナ(ルビ)を振るルビ俳句を試作、これに賛同した碧梧桐もこれを作るようになるが、これはあまり支持をえなかったようだ。
引退については俳句創作への情熱の衰えと、虚子への抗議の意味が込められていたようである。
子規は、碧梧桐と虚子について、「虚子は熱き事火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し」と評した。