東京都台東区の寺院 三ノ輪駅徒歩1分 曹洞宗梅林寺のお知らせ

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お知らせ

梅林寺よりお知らせ

明けましておめでとうございます 文化財

梅林寺の玄関には細木原青起先生画の十二支を展示してあります。これから十二支の絵を順次御紹介していきますが、今年の干支この絵は天照大神、天岩戸の神隠れの図、鶏が印象的です。

 【細木原青起先生略歴】

岡山県出身。旧姓は鳥越、本名は辰江。「京城日報」「東京日日新聞」「大阪朝日新聞」で漫画やユーモア小説の挿絵を担当。俳句は「海紅」の河東碧梧桐に師事、その関係で俳句に海紅の挿絵も数多く担当し、碧梧桐や中塚一碧楼などの俳人たちを描いている。梅林寺先々代の喜谷六花の描かれた作品もあります。『日本漫画史』で『鳥獣戯画』が日本漫画の始祖だそうです。

 

梅林寺の御本尊 その他

梅林寺の御本尊は、昭和の名仏師「阿井瑞岑」先生の多分遺作 釈迦三尊像 

中央は釈迦牟尼佛 左は文殊菩薩 右は普賢菩薩

隠れて見えませんが 後列左は達磨大師 後列右は大權修理菩薩です

阿部将翁の墓 史跡

阿部将翁の墓
阿部将翁の説明

阿部友之進照任は、江戸中期、徳川吉宗治世期に活躍した本草学者で、その墓は都の旧跡に指定されている(昭和3年指定)。
友之進、名を照任、また輝任、字を伯重、号を将翁(しょうおう)また将翁軒と言い、友之進は通称である。
奥州盛岡出身。東条琴台著『先哲叢談続編』第四巻によると慶応3年(1650)の生まれとされているが、没年の宝暦3年(1753)から逆算すると、104歳で没したことになり、生年に疑問が持たれている。
近年、照任の著になる『金の書』などにより、生年は寛文7年(1667)前後という見解も出された。
照任は、享保12年(1727)に奥州盛岡に、翌年甲斐(現、山梨県)に赴き採薬を果たしている。
同年神田紺屋町(現、千代田区)に薬草植場を貸与され、また同14年、奥羽、蝦夷へ採薬に出掛けたことは幕府の史料で判明しているが、未だ不明な点が多い。
照任の曾孫喜任は字を享、享父、通称・号を曾祖父と同じ友之進、将翁と名乗るが、櫟斎の号を使用することが多い。他に巴菽園、庵の号がある。
本草学を曽占春、岩崎灌園に学び、漢学を登場琴台に学んだ。
文久元年(1861)幕府が派遣した咸臨丸に乗船し小笠原の調査を行うなど実地調査の傍ら、曾祖父照任の事蹟を顕彰することに勤めた。
文化2年(1805)生、明治3年没。 
 

喜谷六花 文化財

負う猿背につむりつけて暮れがた

 

喜谷六花(きたにりっか)略歴
明治十年七月十二日、東京浅草馬道に生まれる。本名良哉。
十六歳の折、曹洞宗の僧籍に入り、曹洞宗高等学林および哲学館(現東洋大学)に学ぶ。
明治三十年、梅林寺(台東区三輪町)の住職になる。
俳句は明治三十三年秋声会系の中村楽天主宰の二六吟社同人となり、三十四年には「ホトトギス」例会に出席、「日本俳句」にも投句。
三十四年以来、河東碧梧桐の門人となり、明治四十年以降、新傾向時代の東京俳句会の中堅作家として活躍。乙字、碧童とともに「碧門三羽カラス」と言われた。
また、梅林寺は碧派の俳三昧や東京俳句会などの会場としてよく使われた。
大正元年に第一句集「寒烟」出版。
大正四年、碧梧桐創刊の「海紅」同人となり、中心的役割を担った。大正十四年碧梧桐と共に風間直得の「三昧」に転じたが、碧梧桐の俳壇引退の後、昭和七年に風間直得のルビ俳句に同せず再び「海紅」に復帰。
昭和三年、第二句集「梅林句屑」出版。
戦時中は俳句活動は控えていたが、戦後「海紅」主幹であった中塚一碧楼が死去して後、「海紅」の選を担当した。
碧梧桐没後、昭和二十二年に「碧梧桐句集」を編み、二十九年にも瀧井孝作と共に「碧梧桐句集」を出版。師の功績を世に問うた。
昭和三十五年に第三句集「虚白」を出版
昭和四十三年十二月二十日遷化
曹洞宗大教師

 

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